Matcha frappuccino

with a shot of espresso

08242017

三島由紀夫金閣寺』を読み終えた。最終的な感想は「うーんよくわからん」。私に三島はまだ早かったか…。
第八章で柏木が認識について語るところ、めっちゃ京極っぽい。南泉斬猫って響きに覚えがあると思って探したら『鉄鼠の檻』に載っていた。*1それから暗闇の中で発光する金閣寺の美しさは谷崎の『陰翳礼讃』。
ちゃらんぽらんに生きたいってモットーの所為もあるけど、『金閣寺』の「私」の苦悩がよく分からん。共感できるポイントをまだ発見できてないからだと思う。肉体と精神の不一致は分かった。現実の物質と思考によって作り出される理想像(イデアってやつ?)との不一致も分かった。女とのセックスに代表される「(世俗の)人生」から、「私」が金閣寺によって隔てられてるのも分かった。うーん、どこに共感すれば良いんだ。女(というか異性)と関係を築く(セックスでも、ただの会話でも良い)ことがなんで「私」にはこんなに大事なんだ。わからん。
三島がノーベル文学賞をほしがってた、という私の先入観もあるけど、『金閣寺』はキリスト教圏の読者が理解しやすそうな構造の小説だと思う。仏教用語やら日本家屋やら、歴史的な人物・出来事の名前みたいなディテールはともかくとして。絶対的な存在としての理念としての金閣寺を神、現実世界の物質性を伴った金閣寺をイコンに置き換えると、「私」は理念としての金閣寺と建築物としての金閣寺とを同一視し、更に神でありイコンでもある金閣寺との一体化を図ろうとしているのだが、イコンの金閣寺との融合を果たせない(金閣寺と一緒に焼身することができない)ために神としての金閣寺からも断絶されるって感じ。有為子(初恋らしき女性)とセックスできないからって金閣寺と心中しようとするなよ…しかも最終的に金閣寺だけ殺して「私」生き残ってるし…。現実の金閣寺が失われ、「私」の思い描く理念としての金閣寺が現実の金閣寺を超越(フィクションが現実を超越)した世界で「生きようと私は思った」のかしらん。
小説って色んな楽しみ方があるけど、一番のカギは誰でも良いから登場人物の一人に感情移入できるかどうか、その登場人物の視点で物語を追体験できるか否か、だと思う。主人公でも敵役でも脇役でも良い。その「誰か」を、私は『金閣寺』に見出すことができなかった。相性が合わないのかもね。残念。今度は他の三島作品もトライしてみよう。

*1:講談社文庫き39-4の752~757ページ(第6章)。